69回目の終戦記念日が近づいてきました。1945年8月6日に広島、9日には長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦したことで、日本政府も当然に抗戦をあきらめ終戦に至ったと思われがちです。しかし、実際には、そこから15日までの1週間ほどの間に紆余曲折のドラマがあり、紙一重のところでポツダム宣言の受諾が決まっていました。
その渦中にいたのが当時は海軍大臣だった、盛岡市出身の米内光政元総理です。8月9日には、首相、外相、陸相、海相、陸海軍両総長の6名から成る最高戦争指導会議構成員会議、二度にわたる閣議、さらには御前会議と、深夜まで即時和平派と抗戦継続派の間で激しい議論が交わされる中、米内海相は軍部出席者の中で唯一、即時和平派に立って意見を述べています。結局、日本政府は、天皇制維持を条件としてポツダム宣言を受諾する旨、連合国側に電文を発信しました。
しかし、これに対する連合国側の回答が天皇制維持を明言しないものだったため、事態は紛糾。12日の閣僚懇談会、13日の最高戦争指導会議構成員会議、同日の閣議では陸相をはじめ複数の出席者から抗戦継続が主張されましたが、ここでも米内海相は一貫して即時和平の意向を表明し、ようやく14日の御前会議でポツダム宣言を受諾することが決まりました。その後も陸軍内強硬派はクーデターを画策し、同日深夜には、放送前の玉音放送の録音盤が奪われかけた8.15事件も起きています。ただし、米内海相の秩序維持により、海軍でこれに呼応する動きはありませんでした。
以上の史実から、米内氏は終戦に導いた大功績者だと語られています(半藤一利ほか「歴代海軍大将全覧」241頁)。さらに、米内氏は、それ以前に日中戦争前後にも海軍大臣を務めていますが、英米との戦争につながるとして日独伊軍事同盟に反対しました。これが遠因となって、総理就任後には陸相が造反し、わずか6か月で退陣を余儀なくされています。その後、日独伊軍事同盟が成立し、日本は太平洋戦争への道を歩むことになります。
仮に米内光政という人物がいなければ、日本はもっと早く戦争に突入し、もっと長く戦争を続けていたかもしれません。その場合、犠牲者の数はさらに増え、今生きている人間の多くはこの世にいなかったかもしれません。
日本の平和に貢献した米内氏の偉大さを思うと同時に、戦争に向かい始めた流れを止めたり、始まった戦争を終わらせたりすることが、いかに困難かを痛切に感じます。「歴史から学ばぬ者は、歴史を繰り返す」という格言もあります。昨今の国際情勢と安部政権の対応を見るにつけ、歴史から学ぶ必要性が強まっていると思います。二度と戦争の惨禍を繰り返さないために。