昭和41年に静岡県で一家4人を殺害・放火したとして死刑囚となった、元プロボクサーの袴田巌氏が冤罪を主張する「袴田事件」は、半世紀以上経った今も裁判が続いています。

平成26年に静岡地裁がようやく再審開始を決め、同時に、死刑判決の最大の証拠である「犯行時の着衣」は捜査機関がねつ造した疑いがあるとして、袴田氏を釈放しました。再審で無罪が確定する前に釈放された例は他にありません。釈放しなければ「耐えがたいほど正義に反する」とした静岡地裁の画期的な判断でした。

私は、この英断が一回限りであってはならないと思い、直後の法務委員会で、「再審開始決定があった死刑囚は釈放できる」と法律に定めるべきではないかと主張しました。当時の谷垣法務大臣は、「法律の条文には書かれていないが、釈放できるという解釈は確定している」と心配には及ばない旨の答弁をしてくれ、私の懸念は解消しました。

しかしその後、この静岡地裁の裁判に検察側が異議申立て。4年余りの歳月を経て、11日、東京高裁は、証拠のねつ造を否定して再審開始を取り消す一方、袴田氏の釈放は維持すると判断しました。そもそも再審開始を取り消すこと自体問題ですが、上記の谷垣大臣の答弁を踏まえれば、再審開始を取り消すならば釈放の理由もなくなりそうです。なぜこのような判断に至ったのでしょうか。

15日の法務委員会で、この玉虫色の判断に法律上の根拠があるのか尋ねたところ、最高裁の担当者は「個別の事件の裁判体が判断すべき事項である」との答弁。しかし、個々の裁判体の判断に任せてしまうと、同じケースでも釈放が取り消され死刑が執行される可能性があります。法律によってではなく、裁判官次第で死刑になるかどうかが決まるのでは、「法の支配」と言えません。近代国家以前の「人の支配」に逆戻りです。

さらに、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われない」とする憲法31条にも抵触します。今回の東京高裁の判断は、過去に死刑判決を確定させた最高裁の誤りを認めたくないがために再審決定を取り消す一方、袴田氏を収監すれば社会的批判を浴びることを恐れて釈放を維持したと言わざるを得ません。

まさに「法の支配」とかけ離れた無理筋の判断です。東京高裁の裁判官は、人事権を握る最高裁の意向を忖度したのでしょうか。当の最高裁が「個別の事件の裁判体が判断すべき事項である」と責任逃れしたことと合わせ、法と人権を尊重するべき司法権にも安倍政権のやり方が伝染したかのようです。安倍政権の統治機構を壊す所業こそ、万死に値します。